気流の鳴る音 -交響するコミューン-

気流の鳴る音 -交響するコミューン-
 真木悠介 筑摩書房 1977年

カルロス・カスタネダの「ドン・ファンの教え」シリーズについての最良のテキストとして有名な本である。

いわゆる近代合理主義に対する、オルタネイティブな考えかたのもちかたについてのヒントが、ここにはたっぷり詰まっている。

人間の思考様式、価値観や文化を相対化し、相対化した価値観自体を相対化してゆく、そういった考え方を提示されたとき、いわゆる近代合理主義に囚われている我々は、ともすればそういった考え方を単純化した対立軸としてしかとらえられない。
近代合理主義批判の結果、別の違った合理主義の罠に陥ってしまうのである。

カウンターカルチャーを「反文化」や「非文化」と認識するのは大いなる誤りであり、正当な意味の「対抗文化」として認識しなければならない。
此岸と彼岸といったものの考え方、特定な歴史的文化的価値観・世界観の自己呪縛を単にアンビパレンツなものととらえることではなく、ある「世界」が「世界」を超え、かつ「世界」を内包しているという、いうなればホログラフィ的な世界観が必要なのである。

「明晰さ」とはそれ自体の限界を知る明晰さを含まねばならない。

また、その一種ホログラフィックな世界観が共同体としての社会のホメオスタシスを強化し、人類の価値を高めるはずなのである。

残念ながら、今、世界は間違いなくその逆に進んでいる。

呪術と夢見/イーグルの贈り物

呪術と夢見/イーグルの贈り物
 カルロス・カスタネダ 真崎義博訳
 二見書房  1982年

第6作(日本第5作)の完結編だが、ここに至って、カスタネダは完全に呪術師ドン・ファンの後継者とまでなってゆく。
多くの他の弟子たちとの軋轢や連帯や衝突の中から、さらに奥深い呪術の世界に入ってゆく。

夢見の技術、意識の右側と左側、など、哲学的にはさらに整理されてきたので、ある意味判りやすくなってはきた印象がある。
ここでの呪術とは、ある意味で無意識の領域をコントロールする技術なのだ。
ここに至って物語はすでにカスタネダの自伝となっているのだが、振り返ってみるとこれはすでに「神話」である。
現在一般に多く受け入れられている「指輪物語」や「スターウォーズ」にまで通底する主題、個人の自分探しと成長の物語である。

老賢者の指導のもと、非日常の力と技を身に付けるというストーリーは今やゲームソフトの定番でもある。
そういった、超古典的な「常識」を現代合理主義のなかに引き戻し定着させたのが、一時を画し、アクエリアスの時代を期待させたカウンターカルチャームーブメントの置き土産であり、逆にその程度のものに終わったということなのかもしれない。
ある意味では結果的には世界の価値観の画一化を担っているのがこれらの「置き土産」であり、意識の拡大や戦士として生きることとは程遠い表層だけが世の中に確立してしまったのかもしれない、という感が深い。

現代のアメリカを見れば歴史の退歩がよく判る。
ベトナム戦争という高い代償を払い身に付けた筈の、「オルタネイティブ」という発想は今は何処へ行ってしまったのか。
全く違う価値観がリアリティが存在するという視点は何処へ消えてしまったのか。

ああアメリカよ!という感じではある。
そして、それは新世紀に至って地球規模のグローバリズムへと繋がっていく。

呪術の彼方へ/力の第二の輪

呪術の彼方へ/力の第二の輪
 カルロス・カスタネダ 真崎義博訳
 二見書房  昭和53年

これはカスタネダの一連の第5作となる。
ただし、日本でのシリーズでは第4作である。

今回の中には肝心の呪術師ドン・ファンは全く出てこない。
代わりに女呪術師と、ドン・ファンを取り巻く多くの人脈、弟子たちがたくさん登場する。
そう、カスタネダはすでに自身が戦士なのであった。
内容はさらに哲学性を帯びてきて、「ナワール」と「トナール」といった、認知の世界の論理体系のようなものが登場する。

こういうところが批判勢力には一番懐疑をもたれるところだろう。
ヤキ・インディアンの伝統の中に本当にこのような高度な論理認識が存在するのか?
私も疑問である。

それはインディアン文化を蔑視していうのではなく、むしろこういった論理分析的な見方は所詮西欧文化の枠内でのとらえかたでしかないのでは?という疑問である。
ただ、そう見るのはすでに著述家であり呪術師でもあるカスタネダの術中にはまっているだけなのかも知れない。

「履歴を消し」敵を欺くのは戦士の基本的な技なのだから。

呪師に成る/イスクトランへの旅

呪師に成る/イスクトランへの旅
 カルロス・カスタネダ 真崎義博訳
 二見書房  昭和49年(1974)

呪術師ドン・ファンシリーズ第3弾。
カスタネダはさらに「知者」への道を歩み続ける。
前著の「見る」ことは、幻覚性植物を使いこなすテクニックではなく、世界を認知するチャンネルを切り替え、意味のシステムをいったん破壊して再構築しなければならない。

そのような修練を重ねる中で、さらにいろいろなテクニックが登場してくる。
「履歴を消す」「しないこと」「力の輪」、そして「世界を止める」。
このへんまでくると、呪術師との会話も次第に哲学論の様相さえ帯びてくるのだが、同時に最初にあった民俗学研究はどこか吹っ飛んでしまっている。
要は著者が観察者から実践者へ変容してゆく過程なのである。

ただし、実践者としての著者の道は、ここからようやく始まったところであり、「イクストランへの旅」はこれから始まるのであった。

呪術の体験/分離したリアリティ

呪術の体験/分離したリアリティ
 カルロス・カスタネダ 真崎義博訳
 二見書房  昭和49年(1974)

センセーショナルな第1作で呪術師ドン・ファンと出会い、分かれたカスタネダは運命的な再会をする。
そして前回とは比較にならないほどの神秘体験の深みに足を踏み入れて行くことになる。
この書では「見る」ということの訓練が執拗に繰り返される。

西欧文化のコンテクストでいけば単に薬物使用による幻覚体験ということで、要は「ラリってみました」というだけになってしまうのだが、呪術師への弟子入りという形での体験ゆえに、「戦士として生きる」ことのリアリティが切実に迫ってくるのだ。

若かったこのころ、「知者」になりたい!と、ややミーハーに思ったものである (^^;

呪術/ドン・ファンの教え

呪術/ドン・ファンの教え
カルロス・カスタネダ 真崎義博訳
二見書房  昭和47年(1972)

カウンター・カルチャー(対抗文化)を語るうえで欠かせない、エポックメイキングな本。
著者と内容の真偽の議論は尽きないが、現実の真偽はともかく、アメリカのそしてアメリカを師匠としつづけてきた日本の、精神構造に与えた影響は大きい。

大学時代に一般教養の先生の薦めで知ったのだが、自然科学以外のものの見方、世界の見え方はひとつではないことを思い知らされるシリーズである。
これはシリーズとなる第1作だが、著者自身これらがシリーズ化してゆく(体験が長く深くなる)ことにまだ気づいていないため、 今はまだ人類学研究の本でしかない側面をもっている。
そのため、物語的には一連のシリーズの中ではあまり面白くないともいえる。

「わしにとっては心のある道を旅することしかない、どんな道にせよ心のある道をだ。」