クライミング・ジャーナル (白山書房)

クライミング・ジャーナル -白山書房-

その名の通り、クライミングの専門雑誌。
創刊号:昭和57年4月号。(1982)

編集者として遠藤甲太氏が参加している。
特集は「ハード・フリー・クライミング」で、巻頭インタビューに山崎祐和さんが若き俊英として出ている。(若い!(^^))

記録記事で同氏のグランドジョラス北壁、須田義信氏の甲斐駒・篠沢七丈瀑アイスクライミングなど、 技術記事で中川芳郎氏のプロテクション・テクニック、橋本覚氏のボディ・トレーニングなど。

白山書房らしい、「ジャーナル」の名がふさわしい誌面作りだが、約10年、53号まで続いた後廃刊になってしまった。

・・・そういえば、ほんの一時、ここのアウトドア雑誌もあったなあ・・・

Be-Pal (小学館)

Be-Pal (ビーパル) (小学館)

ビーパル 創刊号

日本のアウトドア雑誌のスタイルを変え、ひとつの形を作ってしまった雑誌だ。
創刊号は1981年7月号。

当時、小学館から新しいアウトドア雑誌が出るという噂を聞いて、期待して待ち構えるようにして手に取った創刊号を見てびっくり。
これがアウトドア雑誌か!?

Outdoorの硬派なイメージの微塵もない、その表紙!
山や森の風景写真、またはバックパッキングやクライミングやカヌーのアクティブな写真をイメージしていた眼に飛び込んできたのは、 ほとんど何の脈絡もない、水着のおねえちゃんの、しかも顔さえ出てない胸だけ強調した写真で、Playboyか平凡パンチかという 斬新な、または異常な表紙だった。
ちなみにおねえちゃんは第3号でやっと顔が出た (^^)

それまでアウトドアといえば、伝統的登山アルピニズムの流れか、またはソーローやビート的文化などの流れをくむアメリカの哲学的なバックパッキングムーブメントを意識したものか、という2大勢力だったのだが、ここは違った。
こういう、独特の「軽さ」はそれまでのアウトドア系雑誌には見られないものだった。

記事内容にしてからが、キャンピングカーで埋立地で読書を楽しむとか、公園でゴム動力飛行機を飛ばそうとか、クライミング用品を駆使して木登りをするとか、スーツの下にフライベストを着て会社帰りに釣りをするとか、およそ従来考えもしなかったバカバカしいような記事がたくさんあって、当時は理解しがたいものがあった。

それと、そういった記事の合間に必ず出てくる小物グッズの価格付き紹介、細かいコラムを集めたページの作りなど、 どう見ても当時画期的だった、カタログ・コラム雑誌「ポパイ」の手法をアウトドアにも取り入れたようなやり方だったように思われる。

従来の硬派登山人間にとっては、恐ろしく散漫で軟弱な雑誌としか言いようのないものだったが、敷居の低いその世界はたちまち多くのファンを生み、業界No.1雑誌になってしまったのだ。

アウトドア、キャンプ、アウトドアファッションがこんなに一般化したのは時代の流れだが、Be-Palはそういったアウトドアの大衆化の流れと完全に一体化して、またスタイルを作りながら現在に至ったのだろう。
この流れの元祖となり、一方の歴史を作ってきたことで、その後どんなに多くの雑誌が出てきても、みんなこの雑誌のエピゴーネンに 見えてしまう宿命が一時期はあったようである。

きっと、アウトドア雑誌の歴史の中では、OutdoorとBe-Palの2誌は永遠に本家と元祖でありつづけるのだろう。

ビーパル 2号
ビーパル 3号

洞穴学ことはじめ

洞穴学ことはじめ
 吉井良三 岩波新書 1968年

洞穴学ことはじめ ジュール・ベルヌの「地底旅行」を読んで以来、洞窟に興味があった。

実際に行ったことは無かったが、中学のとき友人達とハイキングで日原鍾乳洞に初めて行った。
殺風景な洞内にはあまり感動しなかったが、そのころ偶然見つけたこの本にはすっかりはまった。

まだケービングとかスペレオロジーといった言葉がポピュラーで無かった(今でもか?)このころに、すごく新鮮な書だった。
というか、今から見れば古き良き時代に、自然科学者のロマン・探検家のロマンが純粋に満ち溢れていた。

洞窟に限らず、自然科学のもつロマンが輝いていた時代だったのかも。
現代では少年や若者の理科離れがよく言われるが、こういう本のワクワク感を感じないのだろうか。

これは私がアームチェア・スペレオロジストになるきっかけの書であった。
本格ケービングに憧れ続けながらもそのまま年をとってしまったが、今もたまに観光洞でわくわくしたりしている。

著者は京大の生物学の教授だが、エッセイストとしても素晴らく楽しい文章で、秋吉台や竜泉洞、安家洞などの初期探索のくだりなど淡々としながらも情熱が伝わってくる。

日本の近代洞窟探検の歴史の一端もよく判る、洞窟探検と生物学に興味のある人には絶対オススメの書。

深夜特急

深夜特急
 沢木 耕太郎 新潮社 1986(第1便・第2便)~1992(第3便)

一連の貧乏旅行モノ、ヤラセTV番組によって存在が有名になったような気がする。

所謂「バックパッカー」のバイブル的な本であるが、私にとってはバイブルというより、もっと同時代的存在で、 一時の自分の未完の旅を代弁してくれているような近しさを覚える。

普通、この手の旅本では、インドあたりが一番面白いものだが、沢木のこの旅では「第一便・黄金宮殿」の香港から東南アジアが圧倒的に面白い。
マカオでのギャンブルのくだりは本当に面白い境地にはまっている。

全体にいえるのは、この深夜特急3部作は、第1便、第2便が出てしばらく(かなり)間をおいて第3便が発行されたはずであるが (第3便を楽しみにしょっちゅう本屋を覗いても、待てど暮らせど発売されず、忘れたころに発売された覚えがある)、 著者があとがきで言っているように、1、2、と3、の間には何と6年の年月が空いている。
内容もそれに応じて、若く熱血的なハイテンションな前半と、妙に醒めた後半に分かれているのである。
文章や思索的には後半が上質というべきところかも知れないが、同時代体験という読み方では圧倒的に前半が面白いのだ。

明日を知れぬ旅の期待と不安、自由と孤独、それら全てを我知らず謳歌している「若さ」がここにはある。
そしてそれは、無鉄砲なバックパッカー旅へのエネルギーの源泉なのである。
そのような「蒼い孤独」無くしてこのような旅の真価は感じ得ないのではないか。

その点がメディアがお膳立てするインチキ旅企画の一番インチキなところではないだろうかと思う。

気流の鳴る音 -交響するコミューン-

気流の鳴る音 -交響するコミューン-
 真木悠介 筑摩書房 1977年

カルロス・カスタネダの「ドン・ファンの教え」シリーズについての最良のテキストとして有名な本である。

いわゆる近代合理主義に対する、オルタネイティブな考えかたのもちかたについてのヒントが、ここにはたっぷり詰まっている。

人間の思考様式、価値観や文化を相対化し、相対化した価値観自体を相対化してゆく、そういった考え方を提示されたとき、いわゆる近代合理主義に囚われている我々は、ともすればそういった考え方を単純化した対立軸としてしかとらえられない。
近代合理主義批判の結果、別の違った合理主義の罠に陥ってしまうのである。

カウンターカルチャーを「反文化」や「非文化」と認識するのは大いなる誤りであり、正当な意味の「対抗文化」として認識しなければならない。
此岸と彼岸といったものの考え方、特定な歴史的文化的価値観・世界観の自己呪縛を単にアンビパレンツなものととらえることではなく、ある「世界」が「世界」を超え、かつ「世界」を内包しているという、いうなればホログラフィ的な世界観が必要なのである。

「明晰さ」とはそれ自体の限界を知る明晰さを含まねばならない。

また、その一種ホログラフィックな世界観が共同体としての社会のホメオスタシスを強化し、人類の価値を高めるはずなのである。

残念ながら、今、世界は間違いなくその逆に進んでいる。

呪術と夢見/イーグルの贈り物

呪術と夢見/イーグルの贈り物
 カルロス・カスタネダ 真崎義博訳
 二見書房  1982年

第6作(日本第5作)の完結編だが、ここに至って、カスタネダは完全に呪術師ドン・ファンの後継者とまでなってゆく。
多くの他の弟子たちとの軋轢や連帯や衝突の中から、さらに奥深い呪術の世界に入ってゆく。

夢見の技術、意識の右側と左側、など、哲学的にはさらに整理されてきたので、ある意味判りやすくなってはきた印象がある。
ここでの呪術とは、ある意味で無意識の領域をコントロールする技術なのだ。
ここに至って物語はすでにカスタネダの自伝となっているのだが、振り返ってみるとこれはすでに「神話」である。
現在一般に多く受け入れられている「指輪物語」や「スターウォーズ」にまで通底する主題、個人の自分探しと成長の物語である。

老賢者の指導のもと、非日常の力と技を身に付けるというストーリーは今やゲームソフトの定番でもある。
そういった、超古典的な「常識」を現代合理主義のなかに引き戻し定着させたのが、一時を画し、アクエリアスの時代を期待させたカウンターカルチャームーブメントの置き土産であり、逆にその程度のものに終わったということなのかもしれない。
ある意味では結果的には世界の価値観の画一化を担っているのがこれらの「置き土産」であり、意識の拡大や戦士として生きることとは程遠い表層だけが世の中に確立してしまったのかもしれない、という感が深い。

現代のアメリカを見れば歴史の退歩がよく判る。
ベトナム戦争という高い代償を払い身に付けた筈の、「アルタネイティブ」という発想は今は何処へ行ってしまったのか。
全く違う価値観がリアリティが存在するという視点は何処へ消えてしまったのか。

ああアメリカよ!という感じではある。
そして、それは新世紀に至って地球規模のグローバリズムへと繋がっていく。

呪術の彼方へ/力の第二の輪

呪術の彼方へ/力の第二の輪
 カルロス・カスタネダ 真崎義博訳
 二見書房  昭和53年

これはカスタネダの一連の第5作となる。
ただし、日本でのシリーズでは第4作である。

今回の中には肝心の呪術師ドン・ファンは全く出てこない。
代わりに女呪術師と、ドン・ファンを取り巻く多くの人脈、弟子たちがたくさん登場する。
そう、カスタネダはすでに自身が戦士なのであった。
内容はさらに哲学性を帯びてきて、「ナワール」と「トナール」といった、認知の世界の論理体系のようなものが登場する。

こういうところが批判勢力には一番懐疑をもたれるところだろう。
ヤキ・インディアンの伝統の中に本当にこのような高度な論理認識が存在するのか?
私も疑問である。

それはインディアン文化を蔑視していうのではなく、むしろこういった論理分析的な見方は所詮西欧文化の枠内でのとらえかたでしかないのでは?という疑問である。
ただ、そう見るのはすでに著述家であり呪術師でもあるカスタネダの術中にはまっているだけなのかも知れない。

「履歴を消し」敵を欺くのは戦士の基本的な技なのだから。

呪師に成る/イスクトランへの旅

呪師に成る/イスクトランへの旅
 カルロス・カスタネダ 真崎義博訳
 二見書房  昭和49年(1974)

呪術師ドン・ファンシリーズ第3弾。
カスタネダはさらに「知者」への道を歩み続ける。
前著の「見る」ことは、幻覚性植物を使いこなすテクニックではなく、世界を認知するチャンネルを切り替え、意味のシステムをいったん破壊して再構築しなければならない。

そのような修練を重ねる中で、さらにいろいろなテクニックが登場してくる。
「履歴を消す」「しないこと」「力の輪」、そして「世界を止める」。
このへんまでくると、呪術師との会話も次第に哲学論の様相さえ帯びてくるのだが、同時に最初にあった民俗学研究はどこか吹っ飛んでしまっている。
要は著者が観察者から実践者へ変容してゆく過程なのである。

ただし、実践者としての著者の道は、ここからようやく始まったところであり、「イクストランへの旅」はこれから始まるのであった。

呪術の体験/分離したリアリティ

呪術の体験/分離したリアリティ
 カルロス・カスタネダ 真崎義博訳
 二見書房  昭和49年(1974)

センセーショナルな第1作で呪術師ドン・ファンと出会い、分かれたカスタネダは運命的な再会をする。
そして前回とは比較にならないほどの神秘体験の深みに足を踏み入れて行くことになる。
この書では「見る」ということの訓練が執拗に繰り返される。

西欧文化のコンテクストでいけば単に薬物使用による幻覚体験ということで、要は「ラリってみました」というだけになってしまうのだが、呪術師への弟子入りという形での体験ゆえに、「戦士として生きる」ことのリアリティが切実に迫ってくるのだ。

若かったこのころ、「知者」になりたい!と、ややミーハーに思ったものである (^^;

呪術/ドン・ファンの教え

呪術/ドン・ファンの教え
カルロス・カスタネダ 真崎義博訳
二見書房  昭和47年(1972)

カウンター・カルチャー(対抗文化)を語るうえで欠かせない、エポックメイキングな本。
著者と内容の真偽の議論は尽きないが、現実の真偽はともかく、アメリカのそしてアメリカを師匠としつづけてきた日本の、精神構造に与えた影響は大きい。

大学時代に一般教養の先生の薦めで知ったのだが、自然科学以外のものの見方、世界の見え方はひとつではないことを思い知らされるシリーズである。
これはシリーズとなる第1作だが、著者自身これらがシリーズ化してゆく(体験が長く深くなる)ことにまだ気づいていないため、 今はまだ人類学研究の本でしかない側面をもっている。
そのため、物語的には一連のシリーズの中ではあまり面白くないともいえる。

「わしにとっては心のある道を旅することしかない、どんな道にせよ心のある道をだ。」